学芸員による解説

徳島城博物館・根津学芸員による
壽量寺と徳島藩に関する解説ページです。

【1】寺町の成立

 天正14年(1586)の徳島城築城とともに城下町が開設され、その一環として寺町が設けられました。細川・三好氏時代から人々の信仰を集めて勢力のあった寺院を保護するとともに新領主蜂須賀家の支配下に置くように努め、前代の城下町、勝瑞から多くの寺院を移転し、寺町を設けたのでした。蜂須賀家の宗教統制として各宗派の寺院を集めているのが、寺町の特徴です。

【2】壽量寺の歴史について

 壽量寺に関する資料としては、江戸時代の文化12年(1815)に著された藩撰地誌「阿波志」があります。この「阿波志」を郷土史家・笠井藍水が読み下した「阿波誌」にはこのように記されています。

「亦寺街に在り、身延山久遠寺に隷す、伊勢桑名壽量寺僧日鐃来りて樋口長政を主とす、年あり元和中命を奉じ置く、禄三石、公廟あり」

 はじめに伊勢桑名の寿量寺の僧日鐃が阿波徳島に来訪し樋口長政(本来は正長)を主としたことが記されています。これは、日鐃と樋口正長が旧知の間柄で、しかも昵懇(じっこん)だったことが想像されます。樋口正長は伊勢の武将でしたので、これ以前に何らかの接点があったことは確実です。この両者の関係は大いに注目すべき点です。
 壽量寺創建には樋口正長の尽力が不可欠でした。樋口正長は徳島藩蜂須賀家の家中ではたいへんな実力者で、その意見は重かったことでしょう。藩主も重臣正長の願いは速やかに聞き入れたと思われます。「元和中命を奉じて置く」という文言は、藩主の命により創建したことを意味しています。
 また「阿淡藩翰譜(あわはんかんふ)」という別の書物では、樋口家初代正長の項に「寺町壽量寺、内蔵助土地拝領して建立」という文言が記されています。

 元和2年に創建されたのは、大坂夏の陣の翌年にあたりますので、戦死者を弔うことと関係があったかもしれません。正長はこの戦いで武功がありましたが、61才の老齢でした。その年齢から、厚い信仰心を抱くようになっていたのでしょう。そして大坂の陣が終結して徳川の世となり、人々が希求した平和がようやく訪れました。心の安寧がより強く求められたのではないでしょうか。
 ちなみに有名な加藤清正は日蓮宗の信者で、熊本では「清正公(せいしょうこう)」として親しまれています。


  • 阿波志

  • 境内墓地に建つ樋口正長の墓

【3】徳島藩と壽量寺との関係

「阿波志」で記されているように、

①藩命による創建、②毎年・禄三石の給付、③公廟の設置、が端的な関係として注目されます。

③の「公廟」は、蜂須賀家の「公廟」、すなわち徳島藩主の尊像または位牌を安置し、祭祀を行う殿堂のことです。阿波国の一部寺院は徳島藩主蜂須賀家の庇護を受け、寺領や禄を拝領していました。その場合には、蜂須賀家の位牌を安置し、祭祀を行います。


  • 蜂須賀家ゆかりの要受院の墓
    (2代藩主忠英の5男隼人隆喜の正室)

【4】壽量寺創建当時の藩主至鎮について

 大坂冬の陣の軍功により、至鎮(よししげ)は元和元年(1615)に淡路国7万石余を加増され、あわせて松平姓を下賜されました。至鎮の人生において、この当時は絶頂期であったと考えられます。至鎮は慶長5年(1600)に15歳の若さで藩主となりましたが、家臣団の求心力は隠居蓬庵(家政)にありました。

 隠居したとはいえ歴戦の武将であり、政治手腕のあった蓬庵は家臣や領民から信頼されていました。若い至鎮が家臣団を統率し、大坂の陣を乗り越えたことにより、家臣団の信頼は大きく高まり、名実ともに蜂須賀家の当主となりました。
 また、当時は淡路国経営のために、現地に赴いたり、家臣を派遣したり、命令を出すなど、多忙を極めたと思われます。


  • 初代 蜂須賀至鎮

【5】家老樋口正長の人物像

 樋口正長(1555〜1629)は、幼名善十郎、長じて長右衛門、内蔵助と名乗りました。隠居号は道僖。宇多源氏で、佐々木高綱の末孫。伊勢国西ノ城主、樋口治部少輔正家の二男。父正家が手筒山で戦死した時、兄の遺領相続のお礼の名代として安土城に参向し、蜂須賀家との接点が生まれました。元亀3年(1572)長右衛門と改称、秀吉の旗下として正勝の寄騎となり、各地の戦いで奮戦し、著しい武功を上げます。天正13年(1585)の四国攻めでは蜂須賀正勝・家政に従い讃岐から阿波へ転戦します。

 家政が阿波国を拝領すると、長谷川兵庫とともに政事方(のちの仕置)を命じられ、内蔵助と改めました。知行は4,000石を給されました(慶長2年(1597)「分限帳」)。これは阿波九城の城番並の高禄でした。蜂須賀家の政治に反対して起きた名西郡大粟山一揆を鎮定し、褒美の刀を拝領しました。慶長19年(1614)の大坂冬の陣の武功により、大御所家康と将軍秀忠から名誉の感状を拝領しています。この時、大御所家康と将軍秀忠から感状をもらった徳島藩士は、樋口内蔵助正長以外に、稲田修理示植・九郎兵衛植次父子、山田織部宗登、岩田七左衛門政長、森甚五兵衛村重、森甚大夫氏純でした。世に言う「阿波の七感状」でした。樋口正長は徳島藩を代表する武者の一人だったのです。
 元和2年(1616)養子左京栄政(兄分右衛門2男)に家督を譲り、隠居し、道僖と改め、茶科500石を拝領。同年、寺町に藩主より土地を拝領し、壽量寺を建立しました。寛永6年(1629)に75歳で亡くなりました。
 樋口正長は、主君蜂須賀家のためになることであれば身を捨てる覚悟で主君諫め、自分の昇進や加増には一切執着しない無欲の人柄だったと史料に記されています。表裏のない人柄から同僚たちからの信頼も厚かったようです。
 正長の人柄を偲ばせるエピソードがあります。永年苦楽を共にした蓬庵(藩祖家政)は、病の床に就いていた正長を度々見舞いました。正長は臥せっていたにもかかわらず、使いなれた二本の槍を具足櫃の傍らに置き、ひとたび事が起きれば藩主のもとに馳せ参じようという様子でした。年老いてもなお若者と変わらない正長の心掛けが蓬庵の心を打ちました。正長死去の報せを聞いて、蓬庵は涙を止めることができなかったといいます。


  • 家祖 蜂須賀正勝

  • 藩祖 蜂須賀家政

【6】樋口家と壽量寺の関係

 まずは、樋口正長と日鐃とが懇意であったことに起因します。正長は伊勢の武将でしたから、同地において接点があったはずです。
 次に、正長は創建に尽力しましたが、壽量寺は樋口家だけの菩提寺ではありませんでした(もちろん壽量寺において樋口家は重要な存在であったと推測されますが)。藩主の祭祀も行いますし、徳島城の縄張りを行った重臣武市常三の武市家の菩提寺でもありました。そして日鐃上人の宗教心が人々の心をとらえていたのでしょう。

 樋口家との関係を端的に示しているのは、墓地における樋口正長の墓の位置、墓形、大きさがあります。壽量寺が正長を大切にしていたことがうかがえます。


  • 樋口正長の墓

【7】明治以降の壽量寺の様子

 江戸時代、幕府のキリシタン政策のため毎年「宗門改め」を実施し、町人や農民だけでなく、武士までも、檀那寺によって檀家であることを証明してもらいました。つまり江戸時代の寺院は公儀の支配体制の一端を担っていたといえます。

 ところが江戸時代が終わり、明治時代になると、公儀の庇護がなくなるだけでなく、新政府は神道を国家宗教とすることを表明したため、民衆は誤解し、廃仏毀釈運動が起こりました。寺院への逆風はすさまじく、廃寺に追い込まれた寺院もたくさんあり、仏教界は大打撃を受けました。

 徳島城下町の寺院の多くは武士を檀家にしていましたが、明治時代は武士にとっても受難の時代で、ほとんどの武士がそれまで住んでいた屋敷を離れ、新しい生活を余儀なくされ、必然的に寺院は多くの檀家を失ったのでした。しかし、その後仏教界からも「信仰の自由の提唱」など、再生の動きが見られるようになります。