壽量寺の見所

蜂須賀家家紋

本堂屋根瓦の軒丸瓦(巴瓦)の飾りに蜂須賀家の家紋・左卍が使われています。
これは当山が蜂須賀家と関わりの深い寺院であることの証のひとつです。


  • 蜂須賀家家紋が入った軒丸瓦

キリシタン灯籠

近世の茶庭の展開により、庭に石灯籠を設置する風習が生まれ、社寺系とは異なる新たな形の灯籠が造られました。そのひとつが茶人・古田織部(戦国時代の武将、千利休の高弟)が考案もしくは好んで用いたとされる「織部燈籠」です。竿の上部が左右に円形に張り出しているのが特徴。

この張り出しを十字架の変形、下の長身像を宣教師像ととらえ、俗に「キリシタン灯籠」と呼ばれていますが、キリシタンとの関係は定かではありません。当山の灯籠は、天正年中(1573〜1592)に伊勢桑名から移され、後に寄進されました。県内には他に10基ほどのキリシタン灯籠が確認されています(参考資料:「キリシタン研究四国編」松田毅一著、1956年)。


  • 中庭に設置されたキリシタン灯籠

蘇鉄

当山は蘇鉄(そてつ)の寺として有名で、大正5年(1916)『阿波国名勝案内』石毛賢之助編にも紹介されています。蘇鉄は亜熱帯性の常緑低木で、庭園植栽に利用されるようになったのは室町時代からです。異国情緒を漂わせ、安土桃山時代から江戸時代初期には庭園や茶室に多用されました。

元は徳島藩家老・蜂須賀喜緝(よしつぐ)の庭にあったものを明治14年(1881)11月に本寺に植え替えました。この経緯については境内に建つ石碑文「移栽鉄樹碑記」に記されています。


  • 本堂前の蘇鉄

移栽鉄樹碑記

明治23年(1890)10月に建てられた「移栽鉄樹碑記」には次のように記されています。

幕末の頃、徳島藩に蜂須賀喜緝(よしつぐ)という家老がいました(喜緝は徳島藩十代藩主重喜の四男で、四千石の家老を勤めた駿河喜儀の末裔)。喜緝の屋敷の庭には樹齢200年余りの高さ二丈(約6メートル)もの蘇鉄二株がありました。明治4年(1871)廃藩置県となり、喜緝は屋敷を離れ、庭も荒廃しましたが、この二株の蘇鉄は枯れ衰えることはありませんでした。しばらくして蘇鉄が伐られることになり、これをひどく悲しんだ伊勢松翁は住職の日輝上人や同志の者と相談して資金を集め、明治14年(1881)11月に本寺に植え替えたのでした。

その後、残念ながら昭和20年7月の徳島大空襲により、当山は全堂焼失してしまいました。庭園も破壊され、蘇鉄も大きな被害を受けましたが、再び生育し、緑濃き健やかな姿を見せています。


  • 移栽鉄樹碑記

主な墓

樋口内蔵助正長(1555~1629)

徳島藩家老。壽量寺の建立者。宇多源氏(宇多天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族)であり、宇治川の先陣争いで有名な佐々木四郎高綱の末孫。伊勢国西ノ城主、樋口治部少輔正家の二男。豊臣秀吉の旗下として蜂須賀正勝(小六)の寄騎(武士)となり、各地の戦いで武功を立てました。天正13年(1585)の四国攻めでは正勝と嫡男家政に従い、讃岐から阿波へ転戦。家政が阿波国を拝領すると、長谷川兵庫とともに政事方(執事職のちの仕置)を命じられました。

慶長19年(1614)の大坂冬の陣の武功により、大御所徳川家康と将軍秀忠から感状(感謝状)を拝領します。徳島藩では七名の侍が感状を受け、世に「阿波の七感状」と呼ばれたといいます。


  • 樋口正長の墓

要受院(1642~1707)

2代藩主蜂須賀忠英の5男隼人隆喜(1643~1698)の正室。京都の岡本九郎右衛門元近(のち岡田と改めた)の娘。名は不詳。当初は侍女でしたが、後に正室となりました。

夫隆喜は3代藩主光隆の時代に家老となり、のちに職を辞し公族(蜂須賀家の一族)となりました。長男隆長は冨田新田藩2代藩主。長女の芳(また清)は中老池田元太郎と婚約。二男豊之助は夭折。豊之助の墓は要受院の墓の側に建っています。三男隆泰は7代藩主となった宗英ですが、要受院が生母ではありません。


  • 蜂須賀家ゆかりの要受院の墓
    (2代藩主忠英の5男隼人隆喜の正室)

武市家代々の墓

蜂須賀家と関わりのある人物として、武市常三信毘(?~1593)が挙げられます。元は美濃国の武士で、豊臣秀吉が1万石で直臣に召し抱えようとしたという逸話もあります。蜂須賀家政による徳島築城の際、縄張(設計)に参画し、城の北側に屋敷地を拝領しました。それ以降、この場所は常三島と呼ばれるようになりました。九州攻めや朝鮮出兵でも活躍し、「武篇功者無比類」(他に比べようもない武勇に優れた者)とされました。

太田家代々の墓

蜂須賀家と関わりのある人物として、太田章三郎(1770~1840)が挙げられます。徳島藩士であり、太田家4代目。林方代官、紙方代官、作事奉行、目付、大坂留守居、名東名西郡代、板野勝浦郡代を歴任しました。12代藩主斉昌から桜間池碑建立の命を受け、長浜長致とともに勤めました。

俳人としても著名で、俳諧を美濃の森々庵松後に学び、俳号は小春園蓼花。眉山の大滝山に俳諧結社平生社を結成し、文化3年(1806)に「阿波国正風年譜」を著しました。文政8年(1825)藩命により祖谷山に宗門改めに赴いた際の旅日記「祖谷山日記」は『日本庶民生活史料集成』にも収録され、著名。没後、嫡子信冑により追善集「園の記念」が刊行されました。