壽量寺の歴史

日蓮宗 妙覚山 壽量寺
にちれんしゅう みょうがくさん じゅりょうじ

開山 妙覚院日鐃上人
境内勧請 最上稲荷
総本山 身延山久遠寺

当山は徳島藩の藩命により
元和2年(1616)に創建されました

当山創建の歴史は江戸初期に遡ります。尾張国出身の蜂須賀正勝(小六)とその嫡男家政は、豊臣秀吉の命を受けて四国攻めに加わり、天正13年(1585)四国は平定されます。この功績により蜂須賀家は阿波国を拝領し、家臣として武功を立てた樋口正長は家老・政事職として重用されます。

そののち、伊勢桑名にある寿量寺の僧・日鐃(にちぎょう)が正長の元を訪れ、正長の食客(才能のある人物を客として遇すること)となります。正長は慶長19年(1614)大坂冬の陣においても武功を立て、徳川家康と秀忠から感状(感謝状)を授かります。正長は家督を譲り隠居しますが、元和2年(1616)藩主蜂須賀至鎮(よししげ)より寺町に1町四方(1町は約109m)の土地を拝領し、藩命により壽量寺を創建します。開山は日鐃上人。毎年、禄三石(米約450kg)が給付され、公廟(蜂須賀家の位牌等を安置する堂)も設置されました。

当山は蜂須賀家と縁が深く、樋口家の菩提寺です。古くは9間四面(1間は約1.8m)の本堂、お蔵造りの朝日堂、茶室、山門、鐘楼等が建ち並んでいました。奥庭は、旧徳島城表御殿庭園を作庭した上田宗箇の作と伝えられ、表御殿庭園を作った際に残った石が使われました。またキリシタン灯籠や蜂須賀家家老屋敷から移植した蘇鉄(そてつ)などを配した名園でしたが、昭和20年(1945)の徳島大空襲により全堂焼失、庭園も破壊されました。しかしながら樋口正長の墓は戦火を免れ、今も拝することができます。また境内にはかつてのように蘇鉄も茂り、春には桜が咲き誇る、心やすらぐ風情を称えた寺院です。

御山下絵図(徳島城下絵図)元禄4年(1691)

御山下絵図(ごさんげえず)「綱矩様御代御山下絵図(つなのりさまおんごさんげえず)」元禄4 年(1691)
江戸中期に徳島城下を描いた御山下絵図の抜粋です。寺町には本山も記されています。
*綱矩様= 五代藩主・蜂須賀綱矩(1660~1830)

 

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  • 家祖 蜂須賀正勝

  • 初代 蜂須賀至鎮